ハチカイ

いつもなら休日でも誰かしらいて、こうして無人であること自体珍しい、この隊舎。偶然だけど、誰もいなくて幸いだった。
自分がどんな顔をしてるのか、容易に想像できる。だって今、私はひどく落ちこんでいるのだから。
「…………ハァ」
なのはに怒られた。それが私にとってどんなに辛いことか、なのは本人は解ってない。
怒られた日の夜なんて眠れやしないし、ご飯だってまともに食べられなくなるし、何も考えられなくなるし。とにかく、酷い。
足取りもすっかり重くなってしまって、自室に戻るのも大変だ。もし、なのはと鉢合わせてしまったらと思うと……なのはと私に限ってあるはずないと信じて疑わなかった同居のデメリットに、今更直面している。
「なのはのばか」
ちょっと出来心で巻いてみただけなのに。あんなに顔真っ赤にして怒ることないじゃないか。
そもそもなのはが悪いんだ。ちゃんとしまわずにあんな、手に取りやすいところに置いておくから。
私に巻いてって言ってるようなものじゃないか。だから私に落ち度はない。絶対、ない。
「――……ぁ」
思わず喉が鳴ってしまった。部屋になのははいなかった。
でも自室に戻ってくるなり、まさに今思い浮かべていたものと、視界に広がる情景とがぴったり重なって、心臓が思い切り跳ねた。
返したはずの……さっき取り上げられたはずの『ソレ』が、ベッドの中央にあった。
なのはが戻ってきて放り出していった？　……まったく、なのはは稀にこういうところがあるから可愛い、もとい、困ってしまう。
どうしよう。さっき注意されたばかりだし、もうしないって約束したばかりでもう一度巻いたら、やっぱりまずいよね。
もし、またなのはに見つかったら…………今度は口を利いてくれなくなるとか。それは嫌だ。
……お仕置き、とか。あぁ、そんなことになったら仕事どころじゃなくなるかも。変な意味じゃなくて。
ううん、相手はなのはだ。頬を染めて「もぉ。フェイトちゃんのばか」……これなら有り得るかも。それだったら、また巻いても平気かな。
私はいつも真面目に働いているつもりだし、今後も頑張り続けるためにちょっと羽目を外すくらい許されても良いのではないか。いや、許されるはず。
ハッとした時にはもう、正直者な体が動いてしまっていて。『ソレ』を手にしてしまっていた。
……うん、大丈夫だ。なのははどこかへ出かけたみたいだし、今日は局員達も出払っているし。
さっきみたいにちょっとその辺を散歩するくらいなら……。
「ふふ」
なのはが身に着けている物。それだけで何だか嬉しくなってしまうから不思議だ。
……本当は、首には『コレ』じゃなくて、なのはに巻きついてもらいたいのだけれど。そんなこと、あまりに照れくさくて言えるはずもない。
「にゃは」
「え？　――あぅッ！」
背後から漏れた、ここにいるはずのない人の声にサッと血の気が引いて。
刹那、背中にドスンと負荷がかかってベッドに倒れこんだ。
あぁ、もう振り向かなくても解る。背中にのしかかったままの、柔らかくて、おまけに私の頬をどうしようもなく緩ます、この重みの正体は。
「な、なのは」
「えへへ。捕まえた」
ごろんと体を仰向けにされて。見上げた先で白い歯を見せて笑う天使、もとい、なのはと目が合った。頬に微かに触れるなのはの前髪がくすぐったい。
思っていたよりなのはの顔が近くてドキッとした。ちょっと唇を突き出せばなのはのそれとくっついてしまいそうだ。
きっとなのははそんなこと全く意識してないんだろうな。
たまにこういう大胆というか、無頓着なところがあるからまたいじらしい、じゃなくて、困るんだ。
その勝ち誇ったような笑みを見て、今の状況もある程度呑みこめた。
「なのは。もしかして……罠？」
なのはの口の端が持ち上がった。さも満足げに。
待ち伏せなんて卑怯じゃないか。
「フェイトちゃんなら絶対引っかかるだろうなあって」
絶対引っかかるって。それは、喜んでいいのかな。ダメだよね。
でも、なのはがそれだけ私のことを熟知してるってことだし、まあ、いいのかな……。
「言い訳は？　嘘つきのフェイトちゃん」
参った？　とばかり、にんまりと笑いかけてくる、なのは。私に弁解の余地なんてないと思いこんでるみたいだ。
「……なのはが」
「ふぇ？」
「なのはが、最近くっついてくれないから」
ちょっぴり本音を漏らしてみる。
するとなのはは驚いたように大きな目をぱちぱちさせた。
「そ…………それが、言い訳？」
「うん」
なのはがゆっくりと体を起こした。そわそわして落ち着かない。口をパクパクさせている。
ひょっとして、照れているのだろうか。どうも様子がおかしい。
「こ、子供だなぁ。フェイトちゃんは」
「顔赤いよ、なのは」
「赤くないもん」
「子供だなぁ。なのはは」
「マネしないでよっ」
唇をへの字にして威嚇するように唸る、膨れなのはを眺めていたら、何だかくすぐったい気分になって。
体を起こす勢いに任せて、つい抱きこんでしまっていた。
……離れようとしないのは、まんざらでもないということだろうか。
「ときどきこうしてもいい？　なのは」
「……ときどきでいいの？」
不満と期待を隠そうともしない声音を耳元で囁かれて、つい笑ってしまった。
こんなことなら、はじめから思い切っておねだりしておけば良かった。
「毎日がいいな」
言うなり、巻きついたままの『ソレ』がするりと解かれて。
むき出しになった首にふわりと――うろたえる間もなく、抱きとめられていた。
「……なのは」
「『コレ』巻くの止めてくれたら、考えてあげる」
……なんだ。それなら話は早い。もう『ソレ』を巻くのは止めよう。
この甘い抱擁に勝るものなんて次元世界のどこを探したって在りはしないのだから。
「じゃあ、止める」
「ふふ」
そっと顔が離れて、こちらをじっと覗きこんでくる、なのは。また顔が近い。
もちろんなのはのことだから私を誘うだとか、そんな嬉しい、もとい、いけない考えは持ち合わせてないのだろうけれど。これだけ無防備だとかえって心配になる。誰にでもこうだったらどうしよう、と。
ここはやっぱり私が不意打ちして教えてあげないといけないな。大切な人を悪い虫、じゃない、人達から守るために。
身長差があるから、なのはの額にはとても口づけやすい。あぁ、でもやっぱり額よりは唇の方が私は――
「ぇ――……」
と。先手を打たれてしまった。
ただ、狙われた先は私の額ではなく、唇だったのだけれど。
……不意打ちなのに。なのはのそれは、優しい。そして何より――柔らかい。
まったく、これじゃなのはを指導するどころか、なのはが図に乗るじゃないか。
…………キスに免じて、今日のところは良しとするけど。
唇を離すなり、小さな溜息が頬をかすめた。それがまた熱っぽくてドキドキした。ついつい、欲も膨らむ。
「これも、毎日？」
「当たり前でしょ。フェイトちゃんのばか」
とろけるような笑顔に、今度こそ私が口づける番だった。